2006年04月26日

織田信長 青春の蹉跌

「天下人」の中では、桶狭間の戦いという一大転換期以降が
その舞台となっているが、
史実の織田信長の苦渋はそれ以前の時代にもあったというお話。

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下克上、自らの障害となれば例え親兄弟でも始末するのが習いの戦国時代。
どこの家中にも大なり小なり「家中の争い」は付き物だったが、
特に織田家はそれが激しかった。

信長の父・信秀の代には、一族は戦闘力こそピカ一であったが、
反面政治的権力は弱く、尾張守護代の織田信友を主と仰ぐ、地方領主に過ぎなかった。

まず信長は、自らの家督継承の最大の敵、
実弟・信行を仮病で誘い出し、これを暗殺
※信行は信長の母でもある土田御前の権勢を背景に
 たびたび信長に反抗、柴田勝家は元々信行付の家臣であった。

更に父・信秀没後、家督を継いだ信長は、
長年、一族の目の上のたんこぶであった清洲織田家当主・信友
尾張守護・斯波義統の子、義銀殺しの罪として討ち取る。
さらに、信長は織田一門の宗家であった上四郡守護代・織田信安をも討ち、
ここに織田家の統一となる。

これ以外にも、信長が若い頃は、
家中・親戚・近隣の殆どが「敵」という、絶望的な状況であったが、
これに信長は一貫して厳しい態度(早く言えば討ち取り)で臨み、
徐々に協力者・家臣を増やしていくのである。

有名な「うつけ」であった信長の事、
家臣・重臣・肉親にどのような扱いをされていたかは
想像に難くないが、まさにどん底から己の才覚のみで
家中を一つにまとめ上げたのも、信長だからこそなせた技なのだろう。

それ以降、信長は絶えず家臣を「恐怖」「恩賞」により支配、
だが身内には殊の外優しく、特に息子たちに対しては
威厳もあるが、気のいい父親として接したという逸話も数多い。

だが、この手腕が、後に自らの命を
縮める原因になったのかもしれない……


posted by 野座羅氏 at 21:09 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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