2006年04月10日

不遇の身あり、根無し草あり 浪人たちの生涯

今日4月10日は、1560年に
あの後藤又兵衛基次が生まれた日だ。

「天下人」の中でも大活躍する、有名な武将の一人で、
特に大坂の陣での鬼気迫る攻め口とその最後は、今も語り継がれている。
この後藤又兵衛、元々は黒田家(黒田官兵衛孝高(如水))に仕える家柄の出だったが、
家中の揉め事により、一時黒田家を追放される。
後に許され、黒田家に戻るが、今度は官兵衛の子、
黒田長政と折り合いが悪く、
再び黒田家を出奔する。
当時すでに「智勇の誉れ高き身」であった又兵衛のもとには、
いくつもの有名大名からの仕官の誘いが舞い込むが、
これらは全て黒田長政に妨害され、結局浪人に身をやつしていく。
※長政のこういうところも又兵衛は嫌いだったのかも。

大坂の陣では当初、破格の恩賞で家康に誘われるが、これを拒絶。
豊臣勢として参陣、夏の陣で伊達軍との熾烈な抗戦の末、戦死する。

又兵衛はその能力の高さゆえに、旧主に疎まれ、
不遇の扱いを受けた代表格ともいえるのだろう。

0410a.jpg

対照的なのが、漫画などで一躍有名になった前田慶次
彼も「天下人」で活躍する武将の一人。
本当は慶次郎・慶二郎(のちに利益)という名で、
前田利家の義理の甥。
武将として数々の武勲を挙げたのはもちろんだが、
この慶次、それ以上に有名なのが
傾奇者としての立ち居振る舞いと
文人としての類まれなる資質であった。

前田家をあっさり出奔したあと、
各地をふらふら、根無し草のような生き方。
かと思えば、いきなり上杉に仕官、
関が原の合戦前後に勃発した長谷堂の戦いでは
大奮闘している。

で、これだけの逸材でありながら
関ケ原後は殆ど歴史の表舞台に姿を現さなくなるという
まったくもって「変な人」だった。
そのかわり、彼が残した道中日記などは
その完成度、高い教養に裏打ちされた洒脱な句などで
現在でも評価が高い。

真田幸村も九度山での長き浪人生活が、
大坂の陣での大活躍に繋がっていくのだろう。

浪人
「主なき身」を堪える者あり、楽しむ者あり。
彼らの悲しみや喜び、そこら辺も踏まえて
「天下人」をプレイしてみるのもまた一興だ。


posted by 野座羅氏 at 18:34 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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